経営改革提案でひどい目にあった話 その1

もう解散しなくなってしまった会社でのお話しですが、まだ30代前半の若手だった頃に、会社の経営改革提案というのをやったがあります。
その時は惨憺たる結果で、その後、退社に至る2年間、人間関係のドロドロした時期を過ごしたのですが、その時の思い出を書いてみようかと思います。
※長いので注意してください。

その頃は、財政縮小による建設不況が始まり、会社の業績は急速に悪化していました。
部長の一人が、社長の声掛りで、若手社員を集めて経営改革研究会(BPR研究会)を立ち上げました。
各部より若手社員を1名づつメンバーとして選定し、私がそのリーダーに選ばれて、経営改革提案をまとめることになりました。

もともと雑学好きで、大学時代から経営本も多く読んでいたので、それなりに知識はあるつもりで、京セラ創業者のアメーバ経営などは、気に入っていました。

当時の会社の状況というのは、受注が年々激減していくなかで、固定費や外注費が減らず、赤字が垂れ流しの状態でした。
コストダウンとか利益率アップなど言われていましたが、具体論はなく、実際の対策として有効だった?のは、一律の賃金カットくらいです。

コスト的な問題は、普通売上が減少すれば、社内の手が空くので、業務の内製率は上がらないとおかしいはずです。
しかし、売上が減少しても、内製化は進まず、外注率は下がらず、赤字を出しながら、社外に毎年何億もお金が流出していたのです。

理由は、管理職が多く、40過ぎると下に若手を付けて実務作業をさせ、さらに図化数量は外注等を利用して業務を回すのが一般的となっており、また、あちこちの業務の打ち合わせに同行するだけで実務をやらない管理職も多く存在しました。
また、業務に対する管理責任は、所属長、管理技術者、など重複・分散しており、誰も責任を取らなくてよいような体制でした。
技術部の3割の人員がこんな感じで、さらにその上に間接人員もいる状況であり、若手はいつも手一杯で内製化が進まないのも当たり前だったと思います。

さらに営業部門は、各地域に担当一人で、日報もなく、担当している地域の公共事業の市場分析やプロジェクトを追いかけることもしていません。また、文系出身者で全くの素人、顧客の前では技術の話はもちろん、設計仕様も知らず、見積もりすら作れない人も多かったのですが、実際に営業の人から聞いた話は、業務のほとんどが名刺ボックスに名刺を入れて回るだけと聞いていました。
営業報告は、日報もなく月1で「今月は何百キロ走りました」といった感じで、どこで何をしているのか何も分からない、完全にブラックボックス、まさに、野放しで天国のような会社だったのです。

その2につづく

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